2008年02月23日
偉大人物です。
世界の本田の創始者です。
本田 宗一郎(ほんだ そういちろう、1906年11月17日 - 1991年8月5日)は日本の実業家、技術者。 本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者。ソニーの井深大などと並んで、戦後日本を代表する技術者・起業家として世界的に知られている。血液型はA型。
宗一郎が11歳の時、浜松に飛行機の曲芸飛行が行われると知り、親の財布からお金を盗みこっそり夜中に家を出て父親の自転車で不自然な格好でペダルを漕ぎ(いわゆる三角乗り)一晩かけて浜松の飛行場を目指した。
小学生の頃、通信簿を親に見せ判子をもらう必要があった。当然、見せられる成績ではないので、自作した偽造判子で乗り切ることにした。それはよい手だと、次の学期には級友達にも求められ作ったが簡単に発覚した。判子自体の出来は見事なものだったが、全て鏡文字となっていたため一目見れば気付く代物となっていたのである。教師から「お前、他人のばかり作ってどうして自分のは作らなかったのだ?」と不思議がられたが、実際は『本田』だけは、左右対称のため教師も見抜けなかっただけのことである。
20歳当時、人と同じことをするのが嫌いだった宗一郎はまだめずらしかった洋服を好んで着ていた。
浜松でアート商会創業当時より、本田は派手なシャツやネクタイを締め、朝から晩まで試作車のバイクを乗り回した。田舎では、そんな姿が揶揄されたり、資金繰りが面倒(地方の金融業者は、借りた金をすぐに回収にかかっていた)だったりで、都会でのびのびと仕事をしたいと考えていた。
終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水から塩を作って米と交換したり「遊んで」いたという。しかしこの遊びの中から自転車にエンジンをつけることを思いつき、後のオートバイ研究が始まるのであった。
本田は会社の判子を藤沢に預け、会社の経営は全て藤沢に任せていた。本田自身は技術部門に集中し、後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければ、ここまで会社は大きくならなかった」と述べている。互いに「落合」(本田の自宅のある所)・「六本木」(藤沢の自宅のある所)とざっくばらんに呼び合っていた。この言葉の裏には「お互い全力で切磋琢磨することで現在のホンダが築きあげられた」という意味が込められている。また両者は、「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており、本田と藤沢は身内を入社させなかった。盟友の井深大が、自らの会社名を「ソニー」と名付けたことに対し、後年本田は自らの名を社名に冠したことを非常に後悔したという。
宗一郎は経営難に陥ったとき藤沢武夫の助言でマン島TTレース(二輪)やフォーミュラ1(四輪)などの世界のビッグ・レースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚をはかることで経営を立て直した。出場宣言は藤沢武夫によって書かれた。
鈴鹿製作所の完成前に、鈴鹿市側から本田への市名変更の申し出をされたが、宗一郎は「伝統ある地名を個人名に変えるなんてとんでもない」と丁重に断ったのは有名な話。また、とても便利とはいえない三重県鈴鹿市に工場を置いたのは、担当の役人の、接待や金銭など一切関係なく、「渋茶一杯」で誠実に説明してくる熱意に惹かれたからだ、という。ちなみにその時宗一郎は岐阜県大垣市とどちらかに工場を建設する予定だったが、宗一郎が大垣市を訪れたとき、クーラーの効いた部屋でオレンジジュースを出されたという。
三ない運動全盛期の頃全国のPTA団体から「暴走族の親玉」と徹底的にバッシングされたが、「高校生から教育の名の下にバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と訴え続けた。彼のこの訴えが後のホンダと徳島県の私立高校が連携して行っている安全運転講習や神奈川県の「かながわ新運動」を始めとする高等学校への運転者教育導入につながっていくこととなる。
記者から「本田さんは工学博士は無理でも、ロの付いたエロ博士はすぐ取れる」と言われた事に、「これからの未来は、女性が車を乗る時代が来るだろうし、女性にアピールする車を作らないといけない。世の中に女性がいなかったら、俺は毛生え薬を試す事はないだろうし、服はドンゴロスに穴を開けたもので十分だが、女性がいるからこそ、クルマも女性に注目されないといけない」と言った。
1986年、F1でのホンダターボエンジンの圧勝を面白く思わないFISA(現FIA)はターボエンジンの段階的禁止、及び1989年から自然吸気エンジンのみへ移行する決定を下した。これに憤慨したチーム監督の桜井淑敏らは本田宗一郎に直訴しようとしたが、本田は桜井に会うなり「ホンダだけがターボ禁止なのか? 違うのか、馬鹿な奴等だ。ホンダだけに規制をするのなら賢いが、すべて同じ条件でならホンダが一番速く、一番いいエンジンを作るのにな。で、なんだ話ってのは?」と言い、桜井等は「いいんです、何でもありません」と嬉しくなってしまった。ホンダは1987年に16戦11勝、1988年には16戦15勝の圧勝、自然吸気に移行した1989年にも16戦10勝、その後も、1991年に宗一郎が亡くなる年までタイトルを獲得し続けた。
南青山の本社ビルを新築する際、本田は「万が一地震が起こったときに、割れたガラスが歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい」と指示し、このビルには全フロアにバルコニーがつけられたという。また、藤沢武夫も全く同じ指摘をしていたという。
勲一等瑞宝章受賞授賞式の際に、「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言い、その服装で出席しようとした(もっとも、さすがに周囲に止められ、最終的には礼服で出席)。
米国に初めて工場を建設した際、「正装」のツナギ姿で現れ、現地工員ひとりひとりと握手して激励した。工員たちは、伝説的存在であるミスター・ホンダが自分たちと同じ格好で親しく接してくれたことに感動し、米国に進出した日本企業を必ずと言ってよいほど悩ませていた労働争議が、ホンダに限っては一度も起きなかったという。
二代目社長の河島喜好は、大学卒業後に就職先に困っていたところ、偶然に父が宗一郎と顔見知りで、たまたま自宅からも近かったので父と一緒に宗一郎を訪問したら、「じゃあ、明日からウチに来るか」と誘われて本田技研に就職したというエピソードがある(当時のホンダは、個人事業の延長で大らかな時代だった)。
本田の膝下で働いていた社員達は宗一郎を「オヤジ」と呼んで慕っていた。
「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない」
「チャレンジしての失敗を恐れるな。何もしないことを恐れろ。」
「私が手がけた事業のうち99%は失敗だった。1%の成功のおかげで今の私がある。」
「来年も最高のエンジンを作ってやるからな」(1988年、初めてF1ワールドチャンピオンを獲得したアイルトン・セナの記念パーティの席でセナに対し)などがある。
生前から自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような派手な社葬などしてはいけないと公言。実際、遺族はこの遺志に従い通夜・社葬を行わなかった。そのかわり控えめな社葬と言える「お礼の会」が東京都港区青山のホンダ本社・和光・鈴鹿・熊本の各製作所で執り行われた。
ある日、宗一郎がふら?と工場を巡回していると若い工員が「おいっおっさん!なにズボンのポケットに手突っ込んで歩いてんだ!転んだらどーすんだ!」と注意した、暫くしたら「正装のズボン」からポケットが全て取り外された。現在もズボンのポケットは無い。
テレビのインタビューを受けた際「私は年寄りだからもう新しい開発からは手を引いてるが、一応今の若い(開発者)連中が何をやってるか見せて貰っている。でも(何をやってるのか)わからないんだな。だからこそ嬉しいんだ。この年寄りに分るような事をやってるのならうちの若い連中はボンクラですよ。僕に分らない事をやってくれてることが僕は一番嬉しいんだ」と語った。
(以上、ウィキペディアより引用)
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